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――― Barbara ―――

 

バーバラ・レイノルズさんとの出逢い

Barbara Reynolds(1915〜1990)


 

バーバラさんは、人類学者の夫と子供たちと一緒に、アメリカで幸せな家庭生活を送っていました。
 


ところが1951年、夫アール・レイノルズ氏が原爆障害調査委員会(ABCC)の研究員に任命され

バーバラさんと子供たちも広島に来ることになりました。

 

家族の生活は呉市の米軍基地の中に限られていたので、外の様子を知ることもなく

お茶会などに行って楽しく優雅な毎日を過ごしていたそうです。

 



研究員は任期が終わるとおみやげを買ってアメリカに戻るのですが

夫はヨットを買い、これで世界を回ろうと言いました。

四年間旅行しました。

 

 


旅行の終わりに、アメリカがおこなったビキニ環礁での核実験に抗議した人たちが逮捕されたのに出あいました。

夫は、自分たちも抗議しようと言って、家族のヨットはビキニ環礁に入り、夫は逮捕されました。

その後無実となり、1960年ヨットが広島に帰ってくると、バーバラさんたちは有名人になっていました。
 




その時はじめて、日本人が原爆の話をしてくれました。

ある女性は、背中に大きなケロイドがあるにもかかわらず、バーバラさんに「ありがとう」と言ったのでした。



 

原爆を落としたアメリカ。

アメリカ人の私に、この人は「ありがとう」と言った。

バーバラさんはその時、自分の国がしたことを心から悔やんだそうです。

 




1962年、64年に、被爆者らと一緒に世界中をまわり、原爆の恐ろしさを訴えました。

バーバラさんには「いつか必要な時がきたらこれを使いなさい」と

親から受け継いだ遺産がありましたが、それをすべて使い果たしました。

 


ところが、最大の理解者であり、最愛の夫は別の女性を好きになり去っていきました。

絶望に打ちひしがれて、三日三晩お寺にこもり泣き続けたそうです。
 




それでもバーバラさんは立ち上がりました。

1965年 広島に「ワールド・フレンドシップ・センター」を創設。

1975年 オハイオ州ウイルミントン大学に「ヒロシマ・ナガサキ記念資料館」を開設しました。



そして亡くなるまで、つつましい生活を送りながら

被爆者のみならずボートピープルなどあらゆる犠牲者を救うために活動し続けました。

 



バーバラさんの半生を描いた新聞記事(朝日新聞 神塚明弘記者)を読んで私はとても感銘を受け、お手紙を出しました。

それがバーバラさんとの出会いでした。

バーバラさんはウイルミントン大学で勉強できるよう、私をアメリカに連れて行ってくださいました。

 

「どうしてご自分の国を責めるのですか?」と私は尋ねた事があります。

「アメリカを愛しているからです。祖国に二度と過ちを犯してほしくないからです。」

と バーバラさんはおっしゃいました。
 



「あなたが正しい方向へ向かっている時は、神様が味方してくださいます。

だから知恵を絞ってより良い方法を考えるのですよ。もっと頑張りなさい。」

頑張ってもダメだった時、こう言って励ましてくださいました。


今でも時折、このことばが聞こえてきます。

 

 

写真提供・大宮利信さん